東京公演再開、『東京ノート』上演によせて

東京公演を4年ぶりに再開します。

この4年で、作品そのものはもちろん、僕自身の演劇に対するアプローチの仕方も当然変わりました。東京公演を休止していようがいまいが、アーティストなら4年もあれば何か変わるのはあたり前のことでしょう。ただ、僕の変化には、今の日本の地域が常に傍らにあり、地域を見て、地域で活動したことで起き得た変化だと思っています。

今更ですが、地域とは何か。これは以前から変わっていません、地域とは人のことです。そこに住んでいる人、そこに通ってくる人、客人も含め、地域です。土地の持つ風土、歴史も大切ですが、そのこと自体ではなく、その特徴の上に今生きている人達、これから生きて行く人達がいるのです。

地域を見る、地域で活動する、ということは、その土地の人々を見て、その人々と活動すること、そういうことを4年間やってきました。

2008年からの3年間は東京デスロックは富士見市民文化会館キラリふじみのレジデントカンパニーとして活動しました。富士見市は人口10万人のベッドタウン、東武東上線で30分あれば池袋に出られ、東京へのアクセスも悪くありません。大人なら演劇が観たければ東京で観られます。

そんなキラリふじみの一番の特徴は、多様な観客層でしょう。この立地ですから逆に都心からも演劇ファンが訪れます。富士見市にとっても都心から若者が訪れることは大切です、普段富士見市の若者は東京に行ってしまっていますから。

キラリふじみには、これまでの劇場の活動によって小学生から年配の方まで劇場のファンが居ます。そして彼らは東京まで演劇を観に行きません。キラリふじみでしか演劇を見ない方がほとんどです。小学生は後々観に行くようになるかもしれません。もしかしたら大人になって、ふと小学生の頃地元の劇場で観ていた“演劇”とやらをまた観てみようと思うかもしれません。

キラリふじみの主な客層は地元の子ども、年配の方、都心の演劇ファンです。
彼らに作品を見せ“続ける”ことで劇団も大きく成長しました。

僕自身も地元の高校にワークショップに行き、小学生と演劇を作り、10代から60代と市民劇を作りました。当然その参加者も東京デスロックの公演を観にきてくれますし、小学生の一人は出演も果たしました。それらの活動が認められて、僕は2010年より劇場の芸術監督を務めています。

富士見市民文化会館キラリふじみ(http://www.kirari-fujimi.com/

東京デスロックの作品は、東京の演劇文脈では演劇を初めて見る人には勧めるべきではない、というのが一般的な評価でした。実際にインターネットでそういう評価基準を設けているサイトがある事自体、なにか狂っているのかもしれません。その文脈がいかに狭い世界でしか通用しないものか、すぐ隣の埼玉に行っただけで理解できました。

東京以外でも、都市部での公演だと、その都市の文脈で語られることはまだあります。こういう演劇マニアの文脈でしか楽しめない作品は好きじゃないとか、まだ言われます。しかし、我々は演劇を初めて見る子どもや、普段ほとんど演劇を見ない方々と共に活動をしてきましたし、これからも続けていくでしょう。

そしてその富士見での活動の間も、国内他地域での活動、韓国公演、日韓共同製作、フランス国立演劇センターでの招聘公演も果たし、地域での活動が作品のクオリティを下げるということもありませんでした、むしろその逆のことが起きていたと言えるでしょう。

地域の小学生やお年寄り、彼らを楽しませることには、演劇、芸術の公共性の本質があります。彼らも世界の一員であり、芸術は世界との関わりですから。地域に行って世界に出会ったような気がしています。

国内での他の地域では、青森で、青森市で活動する劇団渡辺源四郎商店と、彼らの持つアトリエ・グリーンパークを拠点に3年連続で活動したことも貴重な時間でした。

渡辺源四郎商店は都内での公演活動も頻繁に行い、東京での認知度も高く、青森で唯一と言って良い存在です。しかしそれは逆に俳優達にとっては劇団以外での経験を積む機会が少ないことを意味します。

主宰の畑澤聖悟氏の意向もあり、東京デスロックは現地の俳優との作業を積極的に行いました。ある年は1週間の滞在期間で青森の俳優との作品を創り、東京デスロックの作品と二本立てで上演。ある年は畑澤戯曲、僕の演出で劇団同士の合同公演を青森と富士見で上演しました。

アトリエ・グリーンパークも、以前は渡辺源四郎商店専用の稽古場、公演会場としての場所でしたが、東京デスロックとの関わりのなかで他劇団への貸し出しのシステムを構築し、現在では青森の若手の劇団の公演も行うようになりました。

渡辺源四郎商店(http://www.nabegen.com/

我々も彼らの地域での活動、特に生活と演劇の両立の為の姿勢に多くの刺激を得ました。地方はアルバイトがありませんから、彼らの多くは仕事を持っています。そのなかでクオリティの高い作品を作り続ける姿は、決して東京では観ることはできません。彼らのクオリティはそのプライドに支えられているように見えます。

そして今や彼らの公演活動は青森に留まらず、東京はもちろん他地域での活動も頻繁に行っています。
国内では知る人は少ないですが、今や韓国でも畑澤戯曲の上演が続いています。地域での活動がローカルであるというのは実は幻想で、地域の活動にこそグローバルな可能性が多分に秘められていると感じています。わたしたちが、例えばベイルートのアーティストの作品で感動するように。

この4年間で活動した地域は数えればキリがありません。もちろん47都道府県回ったわけではありません、そういう目的ではなかったので。

もちろん自分の変化に一番大きな影響を与えているのはキラリふじみでの活動ですが、もう一つ、北九州での活動があります。

これは劇団ではなく個人としての仕事でしたが、北九州芸術劇場で2012年1月に『冬の盆』という市民劇を上演しました。これは2009年より足掛け3年で創作した作品です。

枝光北という小さな地域の市民センターで地元の方と3年にわたりワークショップを重ました。枝光は、製鉄の時代に全盛をむかえた街で、現在は日本屈指の高齢化が進む街です。その街では60代ではまだ若手、70代がメインとなって、街の高齢者問題に取り組んでいます。彼らにとっての高齢者は80代、90代なのです。

健康マイレージ(健康なことをするとマイレージがたまって景品がもらえる)、地域カルテ作り(一人暮らしの高齢者の多く住む区域など、地域の現状を把握する)など地域ぐるみで積極的に高齢者対策を行い、市民センターで開かれる健康フェスティバルでは、様々な健康イベントのなかに混ざって、毎回健康劇の上演があるのです。

健康劇では、地元の方が戯曲、演出、出演、全てこなします。地元の60代、70代の方です。彼らが健康のために使っているツールの一つが演劇なのです。3年間彼らと関わる中で、その健康劇に大きな影響を受けました。

出演者が登場すると拍手喝采、台詞を間違えれば野次が飛び、そのヤジにアドリブで返す出演者、そこには演劇が、その場に居るわたしたちの為に存在していました。

例えば健康の為に食事に気をつけましょう、なんてことは会報に載せるだけでも良いはずです、しかし、会報に載せるだけよりも、演劇にした方が伝わるし、なにしろ楽しいのです。そして、客席には隣に自分以外の人たちが居ます。
劇の最後には、健康のためのレクチャーがあるのですが、それに皆でうなずいて、返事をして、あんた気をつけなよと声を掛け合ったり、あたしは大丈夫だよと強がったり、演劇が成し得る大切なことがそこにはあります。
演劇は、芸術はわたしたちのことの為にあるものです。

『冬の盆』では枝光北の様々な要素を元に作品をつくりました、主軸になったのは盆踊りです。以前は多くの町内会で行われていた盆踊りも現在では町内会の予算も人も減り、今ではただ一つの町内会だけが細々と行っているだけになってしまっています。
しかし、そこで行われている盆踊りは、出店も無く、ただ初盆の方の祭壇が設けられ、皆線香を上げてから踊ります。多くの地域でこういった盆踊りもまだ行われているらしいのですが、僕には初めての経験でした。話を伺うと以前は初盆の方の家の前まで行って踊ったそうです。その盆踊りに2日間の練習含め本番2日も全て参加しました。選曲も、お盆に戻ってくる子ども達が踊れるように、昔から使っている曲を使っているそうです。

死者の弔いのために踊る盆踊りは、まだこの街に残る人、そして去って行ってしまった人の為にも踊られている。それは、高齢化が進み空き家だらけになっているこの街、しかし決して暗くならず現在をイキイキと生きている彼らを映している鏡の様に見えました。

そしてその姿は、決してあの街だけのものではなく、確実に現在の日本の姿でもあります。

『冬の盆』本番では、かつての盆踊りに使われ、現在は市民センターのお祭りで現役で使用している櫓をお借りし、櫓を街の「観音堂」に見立てたり、「宇宙船」に見立てたり、「空き家」に見立てた寸劇を上演しました。戯曲もワークショップで作った参加者によるオリジナルです。健康劇と同じくヤジ有りアドリブ有り上演、戯曲と言いましたが、台詞は決めず、その場で物語を進める練習を何度も重ねて無事に本番を遣り切りました。題材は極めてローカルな、枝北の人にしかわからないような題材です。
各地域同士は絶対に違いがあります。わたしたち人間同士が全員違うのと同じです。違う中から繋がりを見つけたときに、力のある繋がりが生まれると思っています。どんな地域にでも共通の問題があるとしたら、それは極ローカルなことを描くことでしか見えてこないでしょう。どんな題材であれ、地域に向かい合う姿、そして、人々は現在も生きているということでしか描けないのではないかと今は考えています。

『冬の盆』の作品自体も個人的にはアヴィニヨン演劇祭に出せるくらいのクオリティだったと自負していますが、この作品によって地域に何がもたらされたということが何よりも重要です。

『冬の盆』を経て、自分たちの地域が脚光を浴びたことも彼らには喜びではあったと思いますが、それは付加的なものにすぎず、かれらの「健康劇」にある変化があったことが一番の成果でした。

実はこれまでの健康劇は水戸黄門のパロディだったのですが、ワークショップで地域の問題を物語にする方法、台詞の持つ情報量の整理方法、舞台上でイキイキ台詞を言う方法を叩き込んだ結果、水戸黄門のパロディから地域の人々を描く作品に変貌しました。

既成の物語の力を借りず、彼らの物語を作り始めました。あの街には作品も、僕も残りません。しかし、かれらはずっと残って生きていくのです。


東京デスロックとしても、枝光北の隣町、枝光本町にあるアイアンシアターでの公演も行いました。

アイアンシアターは元銀行をリノベーションして、のこされ劇場≡がレジデントカンパニーとして活動する劇場で、商店街や街とのユニークな関係が今や全国で注目を浴びています。

例えば商店街の入り口にあるおそば屋さんに行けば、大将が劇場について、演劇について語ってくれます。近所の小学生は劇場を遊び場として使うようになり、今や自分たちの劇団を立ち上げ、自分たちで企画し公演を行うまでになりました。照明や音響の技術も全て小学生が自主的に身につけています。

劇場ができたことで街に若者が来るようになり、彼らは商店街で買い物をします。若い人達が居る、それだけでも商店街の方は嬉しいと言います。我々が買い物に行けば、あ、演劇の人だね、頑張ってね、とコロッケ一つ買っても総菜が3品くらい付いてきます。

お菓子屋さんの奥さんは、劇場の全演目を観ていて、アイアンシアターには今や全国から劇団が集まって公演していますから、奥さんの観劇経験はおのずと全国レベルになっています。

我々は2012年にアイアンシアターにて東京デスロックとのこされ劇場≡の合同公演を行いました。
幸せな公演になりました。公演後に再び枝光を訪れると、いまだに感想を話してくれます。

ここでは書ききれないことがあの場所では起きています。少なくともアイアンシアターで起きていることは今日本で起きている数少ない奇跡の一つでしょう。
北九州にお越しの際はぜひお立ち寄りください。あの劇場は商店街の劇場です、いつでも皆さんを迎え入れてくれるでしょう。

枝光本町商店街アイアンシアター(http://otegarugekijou.org/irontheater/

国内でも、特に北九州では、北九州芸術劇場の活動を中心に関東では決して成し得ない演劇状況が生まれつつあります。


福岡でも東京デスロックの公演と、50歳以上限定ワークショップ&発表会を行いました。2012年は東京デスロック含め僕の作品が福岡県内で4作品上演されたことになります。
今秋にキラリふじみ作品『あなた自身のためのレッスン』のツアーで北九州芸術劇場で公演した際には、北九州の中学校でWSを受けた生徒、先生、福岡の50歳以上WSのメンバー、『冬の盆』メンバー、枝光本町商店街の方など、福岡県内での活動で知り合った方々が多く来場してくれました。富士見市の劇場が作った作品だけがいきなり北九州で上演していたら決して劇場に来ることの無かった方々ばかりです。アウトリーチの成果と言うのは、絶対にあります。ありました。


この4年間は、本当に沢山の、地域で活動している方々と各地で出会うことができました。そのなかで東京デスロックは「地域密着、拠点日本」という活動指針を2011年に掲げました。あたり前ですが、日本とは地域の集合です。各地域はそれぞれオリジナルな存在で、オリジナルな人々が暮らしています。わたしたち自身は当然客人でしかありません、しかし客人として彼らの活動に協力することはできるでしょう。

そして、その活動のなかでわたしたちは客人であることも辞めました。わたしたちは共に日本の演劇活動をしている、この時代に共に日本で生きている、ただそれだけのことでしかありません。

地域に目を向けて作品を創ること、それは風変わりなことに思えるかもしれません。しかし、そもそも創作活動とは、世界の直中で、世界に目を向け、作品を紡ぎ出す作業に他なりません。地域も世界です。世界は地域なのかもしれません。その作品にとっての地域が枝光なのか、東京なのか、日本なのか、アジアなのか、それだけのことでしょう。

「拠点日本」と宣言した時から当然東京公演再開は考えていました。きっかけはもちろん先の震災です。あれ以降東京は変容したと言って良いでしょう。東京から避難するということが現実に起きていますし、今や国内外どこに行っても、東京の悩みを共有してくれる場所はありません。

2012年は東京公演再開に向けて『モラトリアム』『リハビリテーション』『カウンセリング』という作品を発表しました。東京は変わりました、しかし東京の人達は大して変わったように見えません、しかし、そうではないことを個人では感じているはずです。表には出ない東京生活者のなかにある影に向き合いたいと考えています。

かつて日本全国から東京に多くの人が集まりました。現在も東京にはむしろ東京出身ではない人達が多く暮らしています。当然各地には東京に旅立たれた側の人々も居ます。東京には他の地域にわずかに残る人の温かみもありません。影を抱え込み、希望もなく、絶望すらできず、ただその中で東京を生きるわたしたちの姿を、世界一“わたしたちの範囲”が狭い、わたしたちを描きたいと思っています。

戯曲が書かれたのは1994年、舞台設定は2024年の東京です。
20年前には想像もできなかった未来の東京を、現在のわたしたちによって描き出せればと思います。
10年後を全く想像すらできないこの街で。

そして、この東京のローカリティも、無限のグローバリティを持ち得ると確信しています。
全国から、ご来場お待ちしております。


2012年11月
東京デスロック主宰 多田淳之介




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